あまり語られることがなかったデザイナー・久保嘉男という人間の“素”の部分や、物作りにまつわるリアルなストーリーなどを皆様にお届けする「yoshiokubo journal」。今回はショーについての想いや裏側についてお伝えします。(企画・取材・文 松下弥郎氏)
久保嘉男は自身のブランドを始めて4、5年経った2009年に初めて、東京コレクションのランウェイに参加した。理由は、と問うと、「うーん、はっきりは言えないですが、なんとなくやるものだと思っていたんですよね」。
ニューヨークでオートクチュールのデザイナーと4年間にわたり、全てのコレクションをデザイナーと一緒に製作していたため、ホームに帰り自身のブランドを立ち上げたのだから当然やるでしょう、と言う感覚だったのかもしれない。ブランド立ち上げから数年経ち、ビジネスの実績も出てきたから満を持して、といったところか。
結局、東日本大震災禍の秋を除き、2009年から10年間参加し続け、最も客を集めるデザイナーのひとりにまでなった。
くぼ・よしお 00年Philadelphia University’s school of Textile & Scienceファッションデザイン学科卒業後、オートクチュールデザイナー、Robert Danes氏のもと、4年間にわたり、ニューヨークでクチュールの全てのコレクションを氏と共に作製に携わる。帰国後 yoshio kubo 05年S/Sよりコレクションを発表
あっという間の10年を区切りに、自らのコレクション発表の場を海外に移すことにした。「続けることに意味があると思ったので、止める気はありませんでした。ただ、10年と言うのも節目だし、正直、東京で発表するのに飽きたところもあって」。
■10年の節目と次のステージ
きっかけはあった。東京でまだ作品を披露していた2018年のある日、雑誌「ヴォーグ」のイタリア版の記者からの誘いで、「ジョルジオ・アルマーニ」が新進デザイナーを支援するプログラムに応募、「ヨシオ・クボ」が選出されたのだ。1月後半にはパリで展示会を開く予定があった久保は年明け早々に渡伊し、3日と4日にイタリアで作品をみせた。10年の節目を前に用意された次のステージへの架け橋を渡った。
2019年にはメンズの展示会では最高峰、当時は出展審査が厳しかった「ピッティ・イマジネ・ウオモ」への参加が決まり、その年の後半にもミラノでコレクションをみせる機会を得た。
もっともイタリアでの展示会やショーでは思ったほどバイヤーが集まらないのがわかったため、その後、舞台をパリに移す。結果的に、フィジカルのショーを3回開き、コロナ禍はデジタルでも3回にわたって自身のコレクションを披露した。
「イタリアとは違い、パリは悪くなかった。質の高いプレスや目の肥えたバイヤーも来ていたし。移して良かった」。19年6月に行った20年春夏のプレゼンテーションは、セーヌ川に停泊している船で行った。千葉の海沿いで撮影したムービーをVRで見られるようにしてセーヌ川の船上でプレス関係者らに披露し、受けた。
■国産高級車1台分のコスト
ところで、ヨーロッパでショーを行う際、何人のスタッフがどれくらい前に行って、いくらぐらいコストがかかるのだろうか。久保に聞いた。
「人によって多少変わるんでしょうけど、僕らはだいたい1週間前に行きます。何をするかと言うと、ほとんどがモデルのキャスティングです。入国初日はまずショー会場を見に行き、次にキャスティング。モデルが決まったらフィッティングをして、ショーの後に開く展示会の準備をし、次の日にショー、といった感じです」。
「日本から同行するのは、P Rとセールス担当、デザイナーの3人。僕を入れた4人で乗り込みます。あとはスポットで仕事をお願いする現地スタッフがいます」。パリではクリストフというフランス人に3回とも頼んだ。ショーをパリで開くのにいくらコストがかかるかについては笑うだけで教えてくれなかったが、国産の高級車1台分ぐらいか。
久保が今後、海外で作品を披露するのは実のところ未定だ。何度かやって収穫もあった。経験は無駄にはならないし、ファッションビジネスを続ける上での数多くのレッスンも得た。それでも今はゼロベースだと言う。「15分のショーを開くために多くのコストをかけるのに持続可能性(サステイナビリティ)はあるんでしょうかね。服を見せるというのはどう言うことかをもう一度考え直したいんですよ」。コロナショックは世界を、人の価値観を大きく変えた。常識をゼロから見直すのは至極当然のことで、久保もそんなことを考えて新しいやり方を探っている。
久保嘉男は自身のブランドを始めて4、5年経った2009年に初めて、東京コレクションのランウェイに参加した。理由は、と問うと、「うーん、はっきりは言えないですが、なんとなくやるものだと思っていたんですよね」。
ニューヨークでオートクチュールのデザイナーと4年間にわたり、全てのコレクションをデザイナーと一緒に製作していたため、ホームに帰り自身のブランドを立ち上げたのだから当然やるでしょう、と言う感覚だったのかもしれない。ブランド立ち上げから数年経ち、ビジネスの実績も出てきたから満を持して、といったところか。
結局、東日本大震災禍の秋を除き、2009年から10年間参加し続け、最も客を集めるデザイナーのひとりにまでなった。
くぼ・よしお 00年Philadelphia University’s school of Textile & Scienceファッションデザイン学科卒業後、オートクチュールデザイナー、Robert Danes氏のもと、4年間にわたり、ニューヨークでクチュールの全てのコレクションを氏と共に作製に携わる。帰国後 yoshio kubo 05年S/Sよりコレクションを発表
あっという間の10年を区切りに、自らのコレクション発表の場を海外に移すことにした。「続けることに意味があると思ったので、止める気はありませんでした。ただ、10年と言うのも節目だし、正直、東京で発表するのに飽きたところもあって」。
■10年の節目と次のステージ
きっかけはあった。東京でまだ作品を披露していた2018年のある日、雑誌「ヴォーグ」のイタリア版の記者からの誘いで、「ジョルジオ・アルマーニ」が新進デザイナーを支援するプログラムに応募、「ヨシオ・クボ」が選出されたのだ。1月後半にはパリで展示会を開く予定があった久保は年明け早々に渡伊し、3日と4日にイタリアで作品をみせた。10年の節目を前に用意された次のステージへの架け橋を渡った。
2019年にはメンズの展示会では最高峰、当時は出展審査が厳しかった「ピッティ・イマジネ・ウオモ」への参加が決まり、その年の後半にもミラノでコレクションをみせる機会を得た。
もっともイタリアでの展示会やショーでは思ったほどバイヤーが集まらないのがわかったため、その後、舞台をパリに移す。結果的に、フィジカルのショーを3回開き、コロナ禍はデジタルでも3回にわたって自身のコレクションを披露した。
「イタリアとは違い、パリは悪くなかった。質の高いプレスや目の肥えたバイヤーも来ていたし。移して良かった」。19年6月に行った20年春夏のプレゼンテーションは、セーヌ川に停泊している船で行った。千葉の海沿いで撮影したムービーをVRで見られるようにしてセーヌ川の船上でプレス関係者らに披露し、受けた。
■国産高級車1台分のコスト
ところで、ヨーロッパでショーを行う際、何人のスタッフがどれくらい前に行って、いくらぐらいコストがかかるのだろうか。久保に聞いた。
「人によって多少変わるんでしょうけど、僕らはだいたい1週間前に行きます。何をするかと言うと、ほとんどがモデルのキャスティングです。入国初日はまずショー会場を見に行き、次にキャスティング。モデルが決まったらフィッティングをして、ショーの後に開く展示会の準備をし、次の日にショー、といった感じです」。
「日本から同行するのは、P Rとセールス担当、デザイナーの3人。僕を入れた4人で乗り込みます。あとはスポットで仕事をお願いする現地スタッフがいます」。パリではクリストフというフランス人に3回とも頼んだ。ショーをパリで開くのにいくらコストがかかるかについては笑うだけで教えてくれなかったが、国産の高級車1台分ぐらいか。
久保が今後、海外で作品を披露するのは実のところ未定だ。何度かやって収穫もあった。経験は無駄にはならないし、ファッションビジネスを続ける上での数多くのレッスンも得た。それでも今はゼロベースだと言う。「15分のショーを開くために多くのコストをかけるのに持続可能性(サステイナビリティ)はあるんでしょうかね。服を見せるというのはどう言うことかをもう一度考え直したいんですよ」。コロナショックは世界を、人の価値観を大きく変えた。常識をゼロから見直すのは至極当然のことで、久保もそんなことを考えて新しいやり方を探っている。