1999年にフィラデルフィアの学校からニューヨークのオートクチュールデザイナー、ロバート・デンスのアトリエで働き始めたことは前回書きました。仕事漬けの毎日でしたが、もちろん多少はオフの時間もあります。今回はそのあたりを思い出しながら書きます。
■丁稚奉公@N Yの思い出
ニューヨークで住んでいたのは、マンハッタン・アッパーイーストの91丁目。よく見る地図で言えば、マンハッタンのど真ん中を陣取るセントラルパークの右の上の方です。借家からセントラルパークまでの途中にグッゲンハイム美術館やスミソニアン国立デザイン博物館があるエリアです。
当時の家賃は1100ドル。アパートの4階でエレベーターはありませんでした。マンハッタンは中心から離れて行けば行くほど安く、イーストリバー、ハドソンリバーという両側にある川の近くは治安も悪くなります。自分が住んでいたのはイーストリバーの近くでした。
もう少し条件がいい所に住むとなるとルームシェアしか選択肢はありませんでしたが、自分はそんなん苦手だったので、狭くても一人で住めるここにしました。日本人がほとんど居なかったのも好都合。だって、わざわざニューヨークに居てて日本人ばっかりのとこにおるってあほでしょ。2007年までの滞在中で会った著名日本人は、演出家の宮本亜門さんだけでした。
ロバートのオフィスはソーホーでしたから、最寄りの88丁目駅からグリーンの6番で乗り換え無しでした。前にも書いた通り、電車の中では必ずデザイン画を描いていました。
朝はソーホーに一軒あったスターバックスコーヒーでレギュラーのトール(1ドル65セント)というのがお決まり。ランチまではコーヒーと少しタバコを吸うぐらいでやり過ごしていました。
夜遅くまで仕事をして自宅近くまで戻ると、決まって晩御飯は中華でしたね。酢豚とご飯というメニューまで決まっていて。途中からは自分が店に入ると注文するまでもなく酢豚とご飯が出てくるようになってきて、なんか腹立ててたのを思い出しました。
週末はお金もなかったので美術館に行くことが多かったです。そこでお茶を飲んだりして長い時間過ごしてました。文化的な施設はニューヨークはなんぼでもありますので、そのあたりは良かった。
あとは、仕事柄、服屋にも行きました。買えないけれど、やっぱ袖を通したり、生地のテクスチャーを触ったりしないと。冬になると、気が触れたんかと言うぐらいスノーボードにハマってて、州内のアルバニーにあるハンターマウンテンには良く滑りに行きました。
帰国する最後の年に、同じくニューヨークで働いていた奥さん(「ミュラー・オブ・ヨシオクボ」ディレクターの内田志乃婦)にあって、それからは日本食を良く食べるようになりました。言うても、寿司の食い放題とかですけど。
あ、そうそう、よく聞かれるんで答えときます。なぜ、ファッションの仕事をするのにパリやミラノではなく、アメリカに行ったのか、と。元々は映像の勉強に行ったんですよ、自分は。当時はMTVとかがバーンと来てた時で。これからの新しいキャリアやと思ったんですね。
で、英語の勉強でフィラデルフィアに行き、さて大学で勉強をしようかと思った時に、考えたら、お袋は縫い子さんやし、行こうかと思った大学にもファッションの学科があった。ほな、行ってみよかと言うのが実際のとこなんです。
アメリカのファッションって、デザインももちろんあるけど、やっぱりビジネス視点が強いんですよね。うちの学校はテキスタイルの話なんかもまあまあ授業で聞きましたけど、デザイン以上にマーケティングとか教えられることが多くて。それはアメリカのファッション産業のいい所やなと思って僕は勉強してました。
卒業後は意地でも現地で働くぞ、と思っていたので、ロバートから誘ってもらったのは嬉しかったですよね。のちのパートナーとも出会えたんで、なんやかんや言うてもニューヨークでの経験は自分の人生の中では決して小さくはないです。
次回はロバートのアトリエで働いていた時に良く使っていたパリの生地屋さん「マリア・ケント」についてお話をしたいと思います。次のミュラーのコレクションでも久しぶりに使うことにしたので。ではまた。
■丁稚奉公@N Yの思い出
ニューヨークで住んでいたのは、マンハッタン・アッパーイーストの91丁目。よく見る地図で言えば、マンハッタンのど真ん中を陣取るセントラルパークの右の上の方です。借家からセントラルパークまでの途中にグッゲンハイム美術館やスミソニアン国立デザイン博物館があるエリアです。
当時の家賃は1100ドル。アパートの4階でエレベーターはありませんでした。マンハッタンは中心から離れて行けば行くほど安く、イーストリバー、ハドソンリバーという両側にある川の近くは治安も悪くなります。自分が住んでいたのはイーストリバーの近くでした。
もう少し条件がいい所に住むとなるとルームシェアしか選択肢はありませんでしたが、自分はそんなん苦手だったので、狭くても一人で住めるここにしました。日本人がほとんど居なかったのも好都合。だって、わざわざニューヨークに居てて日本人ばっかりのとこにおるってあほでしょ。2007年までの滞在中で会った著名日本人は、演出家の宮本亜門さんだけでした。
ロバートのオフィスはソーホーでしたから、最寄りの88丁目駅からグリーンの6番で乗り換え無しでした。前にも書いた通り、電車の中では必ずデザイン画を描いていました。
朝はソーホーに一軒あったスターバックスコーヒーでレギュラーのトール(1ドル65セント)というのがお決まり。ランチまではコーヒーと少しタバコを吸うぐらいでやり過ごしていました。
夜遅くまで仕事をして自宅近くまで戻ると、決まって晩御飯は中華でしたね。酢豚とご飯というメニューまで決まっていて。途中からは自分が店に入ると注文するまでもなく酢豚とご飯が出てくるようになってきて、なんか腹立ててたのを思い出しました。
週末はお金もなかったので美術館に行くことが多かったです。そこでお茶を飲んだりして長い時間過ごしてました。文化的な施設はニューヨークはなんぼでもありますので、そのあたりは良かった。
あとは、仕事柄、服屋にも行きました。買えないけれど、やっぱ袖を通したり、生地のテクスチャーを触ったりしないと。冬になると、気が触れたんかと言うぐらいスノーボードにハマってて、州内のアルバニーにあるハンターマウンテンには良く滑りに行きました。
帰国する最後の年に、同じくニューヨークで働いていた奥さん(「ミュラー・オブ・ヨシオクボ」ディレクターの内田志乃婦)にあって、それからは日本食を良く食べるようになりました。言うても、寿司の食い放題とかですけど。
あ、そうそう、よく聞かれるんで答えときます。なぜ、ファッションの仕事をするのにパリやミラノではなく、アメリカに行ったのか、と。元々は映像の勉強に行ったんですよ、自分は。当時はMTVとかがバーンと来てた時で。これからの新しいキャリアやと思ったんですね。
で、英語の勉強でフィラデルフィアに行き、さて大学で勉強をしようかと思った時に、考えたら、お袋は縫い子さんやし、行こうかと思った大学にもファッションの学科があった。ほな、行ってみよかと言うのが実際のとこなんです。
アメリカのファッションって、デザインももちろんあるけど、やっぱりビジネス視点が強いんですよね。うちの学校はテキスタイルの話なんかもまあまあ授業で聞きましたけど、デザイン以上にマーケティングとか教えられることが多くて。それはアメリカのファッション産業のいい所やなと思って僕は勉強してました。
卒業後は意地でも現地で働くぞ、と思っていたので、ロバートから誘ってもらったのは嬉しかったですよね。のちのパートナーとも出会えたんで、なんやかんや言うてもニューヨークでの経験は自分の人生の中では決して小さくはないです。
次回はロバートのアトリエで働いていた時に良く使っていたパリの生地屋さん「マリア・ケント」についてお話をしたいと思います。次のミュラーのコレクションでも久しぶりに使うことにしたので。ではまた。