「yoshiokubo」のデザイナー、久保嘉男と14年にわたって行動を共にする河野貴之は、16年に久保のブランドを引き継ぎ、現在「UNDECORATED」のデザイナーとして活躍する。自分のパートナーより長い時間を過ごしていると言う河野に、デザイナーであり経営者であり師匠でもある久保について話を聞いた。(文:松下弥郎)
河野が「yoshiokubo」の服に出会ったのは大学生だった21歳の頃、ビームスの店頭だった。スポーツミックスのテーラードやシンプルだけどどこかひと捻りが利いたデザインに好感をもっていた。もっとも、入社するまで実際に買って着ていたのはボーダーのTシャツ1枚だけ。「最初の頃はそれしか着ていなかったので、すぐにバレました」と河野は笑う。
河野の父親もデザイナーだった。そのため、小さい頃からファッションデザイナーになることを夢見ていたが、「4大だけでは出てくれ」と言う父の説得もあり、普通に4年制の大学に通っていた。
卒業後は留学するなり専門学校に通うなり、自由にしていいと言われていたが、卒業後にイチからファッションを学ぶには「時間がもったいない気がしてきて。キャリアを始める年齢も遅くなるし、不安だったんです」。
大手アパレルに入ると、商品企画やデザインなどはきっと簡単に出来ないと思った河野は、小さな会社で卸ビジネスをしているブランドを探し、yoshiokuboで働こうと決めた。好きなブランドではあったが、デザイナーになるための近道、というしたたかな計算もあった。
「初めて会ったのは面接の時です。と言っても、久保が9割がた話していましたけど」。河野は笑いながら14年前の初対面の場面を振り返る。志望理由さえ聞かれなかったが、「いつか自分のブランドをやりたい」とだけは伝えた。2008年の春からyoshiokuboで働くことになった。
当時は法人格にもなっていなかったし、久保も含めてメンバーは3人のみ。河野が4人目だった。祐天寺の久保の自宅兼オフィスは、河野が参加する際に全てオフィスになった。何でもやります、と言った河野は北海道から沖縄まで営業電話をかけ、2年目からは商品企画や生産管理にも携わり、ずっと久保にくっついていた。なにせ4人なので、分業などなく、その時手の空いた人間が何でもやっていた。
久保嘉男をひと言で表現すれば、と尋ねてみた。「久保と一緒にいて感じるのはエネルギーとか情熱(というワード)ですかね」。それは、河野や久保のパートナーである内田志乃婦とは真逆のベクトルだ。久保はマシンガンのように言葉を発するが、かたや2人は感情をあまり表に出さず、客観的に物事を捉えるフシがある。
−「あんな、河野君。人の相性は凸(デコ)と凹(ボコ)や。真逆の性格でも、ハマったらそれでいけんねん」と久保はよく口にするという。だから、実際に2人との相性はいいのだろう。
自分たちが作った商品が会社に届いた時、「すごいな。めっちゃええやん!」と久保は率先して商品を褒めるという。ボスの喜びは周りの人間のテンションを上げ、自然に社内に明るいムードをつくり出す。
−「(周囲を巻き込む力は)自分にはない能力。発する言葉で人を動かせるのはすごい」。黎明期はブランドの知名度もお金もなかったが、その言葉は時にマジックになり、久保の無理な要求に渋る生地屋や縫製工場を動かしてきた。「久保じゃないと出来なかったと思いますね」。
久保は言葉のひとだ。言葉をエンジンに、創作や社内ムードの醸成に役立てている。そんな久保でも口を閉ざした思い出を河野が教えてくれた。
3年近く前、中国の会社の手伝いをしていた頃の話。久保と河野は年間60日の契約で毎月出張していた。1回行くと5日間、ホテルからは車で40分ほど離れた会社を往復する毎日だ。シーズンで300型ほどさばくハードな出張。よくしゃべる久保も、「河野君、もうしゃべることないわ」と口を閉じ、イヤホンを耳に挿し、動画サービスを黙って観ていたという。
久保が社内に居る時と居ない時とでは、会社の雰囲気は異なる、と河野は言う。居るだけでいい意味でピリッとするし、活気も出て社内に動きが出てくる。オフィスを訪ねてきた社外の人間からも、「いい雰囲気ですね」と言ってもらえることが少なくないそうだ。
久保が社内の雰囲気に気を配るのは、ニューヨークの丁稚時代の経験があるかもしれない。出自の違う外国人の縫い子さんの盛り上げ役をかって出た経験だ。
■丁稚奉公@NYの思い出
ムードメーカー役を引き受けているのはおそらく意識的だ。デザイナーとして夢想するだけでなく、経営者としても常にビジネスを考える必要があるのだから、「当然、意識してふるまっているのだと思います。本当は自分たちがもっとやらないとダメなんですけど」と河野。
久保はエネルギーのかたまりで情熱のひとだが、頑固な人間ではない。むしろ人の意見にも耳を傾けるし、柔軟だ。例えば、自分が手掛けていた「アンデコレイテッド」(当時は「アンデコレイテッド・マン」)をあっさり河野に譲ったのもそう。まだ自分は現役で、このブランドで表現したかったことはあったのだろうが、「死んでもデザイナーをやりたいと言っていた自分にバトンを渡してくれましたから」。
なんでも勢いで走って周囲を困らせる面と、きめ細かい配慮や感謝を忘れない気遣いの面。両方持っていると言えばきれいに聞こえるが、実際のところは、思いつきで走り、あとで周りに迷惑をかけているのに気付き、感謝したり、「ごめんな」と謝ったりする。そんなところのような気もする。それでも、それが出来ない人も少なくないのがこの世界だから、それだけでも貴重なのだ。
独立心が強かった河野がこれだけの時間を久保のもとで費やしたのには、本人も驚いていると言う。それほどまで久保という人間が興味深く、ボスとしても尊敬しているからだろう。久保は久保で4人目のメンバーとして長く勤める河野を貴重なパートナーと考え、自由にやらせてきた。ブランドのバトンを渡したのも、約束を守る意味合いもあるが、河野を信頼しているからだろう。風情が真逆の師匠と弟子、凸と凹がカチッとハマったいい関係である。 (敬称略)
河野が「yoshiokubo」の服に出会ったのは大学生だった21歳の頃、ビームスの店頭だった。スポーツミックスのテーラードやシンプルだけどどこかひと捻りが利いたデザインに好感をもっていた。もっとも、入社するまで実際に買って着ていたのはボーダーのTシャツ1枚だけ。「最初の頃はそれしか着ていなかったので、すぐにバレました」と河野は笑う。
河野の父親もデザイナーだった。そのため、小さい頃からファッションデザイナーになることを夢見ていたが、「4大だけでは出てくれ」と言う父の説得もあり、普通に4年制の大学に通っていた。
卒業後は留学するなり専門学校に通うなり、自由にしていいと言われていたが、卒業後にイチからファッションを学ぶには「時間がもったいない気がしてきて。キャリアを始める年齢も遅くなるし、不安だったんです」。
大手アパレルに入ると、商品企画やデザインなどはきっと簡単に出来ないと思った河野は、小さな会社で卸ビジネスをしているブランドを探し、yoshiokuboで働こうと決めた。好きなブランドではあったが、デザイナーになるための近道、というしたたかな計算もあった。
「初めて会ったのは面接の時です。と言っても、久保が9割がた話していましたけど」。河野は笑いながら14年前の初対面の場面を振り返る。志望理由さえ聞かれなかったが、「いつか自分のブランドをやりたい」とだけは伝えた。2008年の春からyoshiokuboで働くことになった。
当時は法人格にもなっていなかったし、久保も含めてメンバーは3人のみ。河野が4人目だった。祐天寺の久保の自宅兼オフィスは、河野が参加する際に全てオフィスになった。何でもやります、と言った河野は北海道から沖縄まで営業電話をかけ、2年目からは商品企画や生産管理にも携わり、ずっと久保にくっついていた。なにせ4人なので、分業などなく、その時手の空いた人間が何でもやっていた。
久保嘉男をひと言で表現すれば、と尋ねてみた。「久保と一緒にいて感じるのはエネルギーとか情熱(というワード)ですかね」。それは、河野や久保のパートナーである内田志乃婦とは真逆のベクトルだ。久保はマシンガンのように言葉を発するが、かたや2人は感情をあまり表に出さず、客観的に物事を捉えるフシがある。
−「あんな、河野君。人の相性は凸(デコ)と凹(ボコ)や。真逆の性格でも、ハマったらそれでいけんねん」と久保はよく口にするという。だから、実際に2人との相性はいいのだろう。
自分たちが作った商品が会社に届いた時、「すごいな。めっちゃええやん!」と久保は率先して商品を褒めるという。ボスの喜びは周りの人間のテンションを上げ、自然に社内に明るいムードをつくり出す。
−「(周囲を巻き込む力は)自分にはない能力。発する言葉で人を動かせるのはすごい」。黎明期はブランドの知名度もお金もなかったが、その言葉は時にマジックになり、久保の無理な要求に渋る生地屋や縫製工場を動かしてきた。「久保じゃないと出来なかったと思いますね」。
久保は言葉のひとだ。言葉をエンジンに、創作や社内ムードの醸成に役立てている。そんな久保でも口を閉ざした思い出を河野が教えてくれた。
3年近く前、中国の会社の手伝いをしていた頃の話。久保と河野は年間60日の契約で毎月出張していた。1回行くと5日間、ホテルからは車で40分ほど離れた会社を往復する毎日だ。シーズンで300型ほどさばくハードな出張。よくしゃべる久保も、「河野君、もうしゃべることないわ」と口を閉じ、イヤホンを耳に挿し、動画サービスを黙って観ていたという。
久保が社内に居る時と居ない時とでは、会社の雰囲気は異なる、と河野は言う。居るだけでいい意味でピリッとするし、活気も出て社内に動きが出てくる。オフィスを訪ねてきた社外の人間からも、「いい雰囲気ですね」と言ってもらえることが少なくないそうだ。
久保が社内の雰囲気に気を配るのは、ニューヨークの丁稚時代の経験があるかもしれない。出自の違う外国人の縫い子さんの盛り上げ役をかって出た経験だ。
■丁稚奉公@NYの思い出
ムードメーカー役を引き受けているのはおそらく意識的だ。デザイナーとして夢想するだけでなく、経営者としても常にビジネスを考える必要があるのだから、「当然、意識してふるまっているのだと思います。本当は自分たちがもっとやらないとダメなんですけど」と河野。
久保はエネルギーのかたまりで情熱のひとだが、頑固な人間ではない。むしろ人の意見にも耳を傾けるし、柔軟だ。例えば、自分が手掛けていた「アンデコレイテッド」(当時は「アンデコレイテッド・マン」)をあっさり河野に譲ったのもそう。まだ自分は現役で、このブランドで表現したかったことはあったのだろうが、「死んでもデザイナーをやりたいと言っていた自分にバトンを渡してくれましたから」。
なんでも勢いで走って周囲を困らせる面と、きめ細かい配慮や感謝を忘れない気遣いの面。両方持っていると言えばきれいに聞こえるが、実際のところは、思いつきで走り、あとで周りに迷惑をかけているのに気付き、感謝したり、「ごめんな」と謝ったりする。そんなところのような気もする。それでも、それが出来ない人も少なくないのがこの世界だから、それだけでも貴重なのだ。
独立心が強かった河野がこれだけの時間を久保のもとで費やしたのには、本人も驚いていると言う。それほどまで久保という人間が興味深く、ボスとしても尊敬しているからだろう。久保は久保で4人目のメンバーとして長く勤める河野を貴重なパートナーと考え、自由にやらせてきた。ブランドのバトンを渡したのも、約束を守る意味合いもあるが、河野を信頼しているからだろう。風情が真逆の師匠と弟子、凸と凹がカチッとハマったいい関係である。 (敬称略)